SS 隣人A氏



 平々凡々な現代人である私には、マンションの隣に誰が住んでいるかなど知ったことではない。

 あえていうならA氏は理想的な隣人であった。私が近隣の住人にもとめるたった一つのこと。すなわち静かで、むやみに干渉してこないという条件を満たしていたのだから。
 しかしあるときを境に彼は、最悪の隣人となった。
 いや彼自身はなにも変わっていない。私の問題である。

 ひとつの疑念がわいてしまったのだ。すなわち、
 彼はお化けなのではないか?
 思えば私は、隣から物音の類をなんら聞いたことがない。会話はもちろん、テレビの音ですら、である。
 夕方、部屋に入っていくところを何度か見た。彼が住んでいるのは間違いない。しかし、物音の類がまるでしない。
 私は恐ろしくなった。


 そもそもこんな疑念を抱くに至ったのは、去年まで話を戻さねばならない。今年の新人の半数がやめてしまったと職場の上司に管をまかれ、帰りが遅くなった日のことである。
 まずい酒をしこたま飲まされ、私の足取りは重かった。もともと下戸であるから、ひどく気分が悪く、風にあたりたいと近くの公園に寄った。
 そこでA氏の姿を見たのだ。
 なにをしていたわけでもない。ただ少女が遊具で遊んでおり、彼はブランコを揺らして眺めていただけだ。

 お子さんがいたのか。思い、それからふと違和感に駆られた。つまり、もう十二時を過ぎているのに、まだ遊ばせているのか。
 しかし私は気分が悪かったから、そのまま家に帰り寝てしまった。

 その夜からだ。私がA氏を気にしはじめたのは。
 その後何度か、夜、公園に行ってみた。A氏はときどきしかいなかったが、少女はいつも遊んでいた。暗闇にたたずむA氏の姿があまりに不気味で、このころからである、彼が物の怪のたぐいでないかと思い始めたのは。
 そうして彼を気にするようになり、隣の部屋から物音がまるでしないことに気付いた。隣室はいつもカーテンが閉まっており、中の様子は覗けない。私はA氏が気になって仕方なくなった。

 このときすでに私は、病的なほどA氏にとりつかれていたといえよう。彼を徹底的に調査することにした。
 まずA氏はいたって夜型であるようだ。寝息の類は聞こえぬが、昼は部屋から一歩も出てこない。そして夜の12時になると、ふらりとどこかへ出かけることが多い。
 これは好機といえる習性であった。私は翌日死ぬほど眠くなるのをこらえ、夜中のうちに、彼の家を調べることにした。犯罪行為であるが、いやはや、猫が死のうと好奇心というものは抑えられない。

 まず取った策は、窓から覗き込むというものであった。
 ベランダを伝って彼の部屋へ。窓にはカーテンが閉まっているが、中に誰もいないなら問題はない。天窓から針金をたらして、慎重にカーテンを開けていった。
 ところが驚いたことに、中にはなにもなかった。ガラガラなのだ。家具の類がひとつも置いていない。隅々までは見えないが、見て取れる限り、引っ越した直後の私の部屋の内装とまったく同じであった。

 人が住んでいるとは到底思えぬ部屋の様子に、私は改めて恐怖した。そして同時に、際限なき好奇心に駆られてしまった。
 部屋から得られる情報は少ない。ならば人だ。私はあるとき、出かけたA氏のあとを追ってみることにした。

 A氏は幽霊のように思えたが、どうやら足はあるようであった。たとえば小学校の近くを通ったとき、転がってきたサッカーボールを、ちゃんと足で少年たちへ蹴り返してやった。
 A氏は暗闇を好むように見えたが、どうやら明るい場所にも平気で行くようであった。流行っていない繁華街のなかでは、ネオンがチラつき妙に明るい遊興施設へ入る姿を何度か見た。
 あるときなどとうとう、墓地へ入っていく姿まで見てしまった。しかし何をするでもない。近所の畑で出来た品だろう、茣蓙に市を広げた老婆から、野菜を買ってすぐに帰った。

 A氏のあとを追ってすら、なんら幽霊らしきことをしてくれない。私はいよいよ我慢できず、彼の部屋に潜入することを決めた。鍵をちょろまかし、彼がいなくなるのを見計らって、中に入った。
 そこで見たものは……。


「あなたが私を尾行しているのは知っていました。鍵をちょろまかしたのも」
 後ろからのA氏の声に、私は凍りついた。
 なんたることだ。部屋に潜入できたとたん、彼が引き返してきたのである。そして部屋の内装に驚いていた私は、まるで気付けず、隠れることもできなかった。
 いや、いまとなっては見つかったこそすらどうでもいい。これはどうしたことか。



「普通の家じゃないか」
 私は思わずつぶやいていた。
「なにがです?」
 いぶかしむA氏。
 しかし私はそれどころではない。どうしたことだ、ちゃんとした明かりの下で隅々まで見るA氏の家は、
 普通の内装なのだ。テレビなどの娯楽品はないが、布団や食器など、必要最低限のものが、整然と窓からは死角となる場所に積まれていた。
 あえて奇怪なものを挙げるとすれば、壁一面にマットのようなものが貼られている点だが、他はごく普通の、男一人暮らしといった様相である。

「すいません。やはり音が漏れてしまいましたか」
「え?」


 A氏の話ではこうだった。
 A氏はなんでも、人一倍いびきのひどい体質なのだそうだ。医者にかかっても一向に治らず、眠ればそのたび、壁を揺らすほどの大音量でいびきをかいてしまう。それゆえ周囲の人間に迷惑となるのが耐えられぬらしく、今回引っ越した家では壁に防音材を敷き詰め、なおかつ周辺の睡眠を邪魔せぬよう、人のいない昼間に寝るようにしていたとのことだ。しかしそのせいで働き口が見つからず、家具を買う金もないとのこと。

 私は笑ってしまい、それから申し訳なくなった。
 彼のいびきとやらは防音材が完全に遮断しているようで、休日でも物音を聞いたことはない。夜型にする必要はあるまい。私は昼型に戻すよういい、かつ社に口をきいて、彼を雇ってやることにした。彼は喜んだ。

 まだときおり昼に眠くなってしまうらしく、昼休みなど社に爆音を響かせるA氏だが、いまでは愉快な隣人として、楽しくやっていけている。
 いやしかし、私の勘違いときたら、恥ずかしいものだ。幽霊などこの世にいるはずがあるまいに。

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